時を愉しむ
下手の横好き
余生の生き方の要となる趣味(愉しみ)には、大別すると二つのタイプがあるようだ。
一つは、あることを地道に永く深く愛着を持って探求するの「のめり込み」派。
そして、もう一つは興味本位になんにでも「広く浅く」挑戦するタイプ。一般的には、熱しやすく冷めやすい人、或いは「物好き」とも言われている。
私の場合は後者である。
これまでいろんな趣味をかじってきた。
いわゆる「下手の横好き」である。
何かに熱中している時は「愉しい」とか「面白い」という感覚を超えた異次元の空間をさ迷っている瞬間かもしれない。
何かに夢中になれるあいだは「理想郷」の住民だと思っている。
以下は私のHooby Profileである。
Hooby Profile
1.自転車
2.カメラ
3.アマチュア無線
4.オーディオ
5.マラソン
6.キャンプ
7.釣り・ボート
8.ラジコン
9.ドローン
10.オートバイ
11.発動機
1.【自転車】
13歳(1967年 昭和42年)中学の通学(片道約4キロの田舎の山道)に丸石自転車の「ヤングホリデー」(初期型で比較的シンプルな6段変速軽快車)で毎日通っていた。
ある時、どうしてもサイクルメーターが欲しくて、親に無断で田舎の自転車屋に注文してしまった事がある。
価格は3,000円位と当時としては高価。
田舎のため小遣いを使うようなところは無く、必要な時はその都度もらって事足りていたが、この時ばかりは事後報告となってしまった。
当然、価値の伴わない高価な出費に、それなりに叱られた思い出がある。
社会人になってブリヂストンの「ユーラシア」(ランドナー)、Panasonicの「マウンテンキャット」(MTB)と乗り継ぎ、現在ロードバイク3台、マウンテンバイク1台所有している。
競技志向ではないがこれまでMTBやロードの大会には数多く参加してきた。
また、子供が小さいとき、一緒サイクリングしたり大会に参加したことも思い出深い。
倶楽部で皆と走るのも愉しいが、一人でぶらりと海を眺め、山を登るのも愉しい。
それに、走るだけでなく、パーツを買って交換したり自転車を組み立てたりするのも面白いし、磨いて、眺めているだけでも憩いのひと時である。
自転車の構造は単純である。しかし、個人的に見て、約50年の歴史の中で大きく進化した点もある。
その一つが、1991年シマノが開発した、
「デュアルコントロールレバー」
(ブレーキとシフトチェンジを兼ねたレバー)
これはハンドルを握ったままギアを変速できるという画期的なものだった。
それも手加減ではなく、カチカチと一段ずつ確実にギアを変速してくれるから驚く。
そして、2009年頃、これまでシフトレバーでワイヤーを引いたり戻したりしてギアチェンジしていたが、なんと、変速機内に小さなモーターを仕組み、そのモーターの駆動によってギアを変えるという電子変速システム「Di2」が登場した。
このシステムの登場で変速のスイッチに軽くタッチするだけで俊敏にギアを変出来るようになった。
それもコンピューターが確実に制御してくれるというからさらに驚く。
過去のホームページ(純正バッテリ—を小型のバッテリーに変更)
それから、数年前、峠の坂道を息を切らし、汗を落としながらペダルを漕いでいると、後方から自転車が迫る気配がした。
「やはり、もう若い人にはかなわない」と思っていると、まもなく喘ぐ私の横を70歳を優に超えていると思われるおじいさんが涼しい顔をして追い抜いて行った。
それも平坦な道をスイスイと走るように。
自転車を見ると、電動のママチャリである。
私はその現実に見舞われた時、相当の衝撃を受けた。
現在はスポーツバイクも電動化が進んでいる。
私もEバイクに試乗させてもらったことがあるが、もはや自転車の域を超えた乗り物であった。
これを自転車に分類してしてよいかわからないが、高齢者には最適な乗り物であることには間違いない。
私も1台ほしくなった。
尚、同じ倶楽部に85歳で毎日50キロを目標に走っておられる長老が居る。(勿論、電動バイクではない)
余生はこの先輩の後をついて走れば先ず、退屈することは無い。
2.【カメラ】
17歳、(1971年、昭和46年頃)高校の時、牛乳配達のアルバイトで中古の一眼レフカメラ、ミノルタSRT101と、当時としては珍しかったズームレンズ、コムラの925(新品)を買って主にSLを撮っていた。
レンズを買ったカメラ店の奥さんが「あなたは将来日本を代表するカメラマンになるわ」と世辞を言ったが、プロどころか、これまで賞を取ったことすらない。
社会人となって、会社の先輩から「知り合いのカメラ屋が廃業するので買わないかと持ち掛けられ、NikonのF2フォトミック(F1.4付)の展示品を破格の安値で買った。
後に使いもしないモータードライブまで衝動的に買ってしまった。
カメラは50年の歴史の中で激変した。
SRT101やF2の時代の操作は完全手動式で、先ず、高価なフイルム(高感度でISO400程度)を装填し、シャッタースピードを決め、絞りを設定し、レンズを回してピントを合わせ、そしてシャッターを押してフイルムを巻き上げる。
写し終えたらフイルムを取り出してをカメラ屋にもっていきプリントしてもらい後日、または数時間待って取りに行く、という一連の儀式があった。
(当時は「カメラ」を「写真機」と呼ぶ人も多かった)
その後フイルムからデジタルへと記録媒体が変わった。
その途端、技術は理解できないほどのスピードで進化しながら今日に至り、尚も、未来に続いている。
現在はミラ-(プリズム)レスが主流となって、切手よりも小さなメモリーカードにスチール写真だけでなく動画も、それも4Kで、それも数時間録画できるから不思議でならない。
(写真機が映写機を兼用し、スマホが通信機と写真機と映写機等々を兼用している)
1980年頃、家庭用のビデオ撮影機の出端であったSONYのHVC1100、SL3100というビデオロケーターを使ったことがある。
今では考えられないがカメラ(2.2キロ)を構え、それを録画するビデオデッキ(7.2キロ)を肩にかけて撮影していた。これにバッテリー、テープを加えると10キロを超えた。
それを記録するテープがVHSに対抗した「パスポートサイズ」のベーターマックスであったが、厚さは筆箱ほどもあった。(写真の一番手前)
勿論家庭で編集など出来るはずもない。
現在は写真も動画の編集も自分のパソコンで自由自在。
ここまでくれば当時(フィルム、カセットテープも含めて)とは全く異次元のデジタルアートの世界である。
進化したのは記憶媒体だけではない。
私は2013年に発売された GoPro HERO3 ブラックエディションという動画を目的とした小型のカメラを買った。ただ、小型ゆえに手に持って撮影すると画面が(手が)ぶれる。そこで手動式のジンバルという手ぶれ補正の機材を買った。
ところがカメラのバランスやら、持つ手の微妙なコントロールが中々難しい。
すると、まもなくそんな熟練技を全く必要としない電動のジンバルが出現した。
持つ手がどのような動きをしてもカメラはぴたりと正面を見据えたままである。
更に手元のスイッチでカメラだけ左右や上下にぬるぬると動かすことが出来る。
この動きを見た時、「時代は想像を超えた」と実感した。
ところが技術は更に進歩し、最新のカメラはその本体に手振れ補正の機能がすでに内蔵されている。
よって電動ジンバルの出番がすっかり無くなってしまった。
早まった、と悔やんでいる。
最近は動画もスティールも孫たちが被写体となることが多くなった。
ただ、写すのは手軽なスマホ(iPhone)で済ますことが多い。
このホームページの写真も殆どはスマホである。
高価でデカくて重いレンズと、豆粒ぐらいのスマホのレンズで撮った写真は素人目では区別がつかない。
たとえ違いが分かったとしても、スマホの画質に不満を感じることは無い。
とは言え、折角だから、手元にある一眼レフやレンズを使って、孫たちや身近な日本の風景や暮らしを写真や動画に残して愉しみたいと思っている。
3.【アマチュア無線】
23歳(1977年 昭和52年)当時の「電話級アマチュア無線技士」の資格を取って、TORIのHF機ST-830や144MHz帯のTR-7500、ICOMのIC-2Nなど買った。
当時、仕事の都合で転居が多かったこともあり、運用はモービルやハンディーが主となったが、近年はほとんど使うことも無く押し入れに眠ったままとなっていた。
そこで決心。平成の終わりにハンディー機のVX7(50/144/430MHz)だけを残してケーブルからアンテナまですべて処分した。
その総額は約6万円程だった。
当時アマチュア無線は趣味の王様と言われ、マイク片手にとぎれとぎれに聞こえてくる世界中のCQ仲間とのコンタクトや、交信記録のカードの交換、いつもの仲間とマイク越しの他愛のないやり取りも面白かった。
しかし、時代は携帯電話からスマホとなり、当時では想像することすらできなかった時代がやってきた。
最近、VX7で、その昔、空いてるチャンネルがないほど込み合っていた144MHz滞をスキャンさせてみた。
しかし、人の声を受信することは出来なかった。(アンテナのせいもあるかもしれないが…)
勿論スマホと、アマチュア無線とは愉しみ方の本質が異なるので今でも熱心に取り組んでおられるMOさん(先輩)も多いと思う。
アマチュア無線は機会があっても機械がないので今のところON AIR の見込みはない。
(コールサインは健在)
写真は太陽光発電でVX7の運用テストを行っているところ。
http://nippon.o.oo7.jp/solarbox1.htm
過去のホームページ
4.【オーディオ】
26歳(1980年 昭和55年)頃、あまり興味はなかったが成り行きでJBL-4311Aのスピーカー、YAMAHAのアンプC-6 B-2、VictorのQL-7R(プレーヤー)を買った。
あれから40年、久々にスイッチを入れたところ、まもなく片方の4311Aが一瞬声を震わせ、倒れた。
原因は発錆による脳梗塞だった。
よって患部の古いユニットをすべて取り換えて一命はとりとめた、というより若返った。(詳細はこちら)
それから何時突然死するかもしれない、B-2(重量26Kg)の後任をそれとなく探していたら、なんと重さ100分の一以下、価格70分の一以下、更にBluetooth対応、出力100Wで手のひらに乗るアンプをアマゾンで見つけた。
早速取り寄せて4311Aを鳴らすと、驚いたことに、その歌声はB-2とほぼ同等⁉
「こんなことがあってよいのか!」
これにはいささか参ってしまった。
この豆アンプとの出会いがオーディオ熱を復活させてしまった。
そこで、小さなアンプには小さなスピーカーと、色々研究した結果、DALIのOBERON1 をつい最近(66歳になって間もなく)買ってしまった。
それから、たまたまハードオフに行ったら、手のひらに乗るYAMAHAのNS10MM(税込み3,300円)と目が合ったので買った。
それからのブックシェルフ型のJBL4312MⅡが安く並んでいたのでついつい買ってしまった。(オーディオに投資したのは40年振りである)
暫くはハードオフには行かないと決めた。
この豆アンプは9Vから24Vのバッテリーが使えるため、余生は移り変わる景色を眺めながら野外ステレオコンサートを開催したいと、今から楽しみである。
尚、突然倒れた4311Aはレストアで若返ったが、もう一台の4311Aは40年前のまま健在で今日に至ている。が、何時倒れるかわからない。
コンデンサーやアッテネーターは2台分取り寄せているので、折を見て片方の4311Aもレストアしなければならない。
これもまた愉しみである。
JBL4311A
右 オリジナル
(近々レストア予定)
左 レストア途中
5.【マラソン】
30歳の中頃(1988年昭和63年頃)からマラソンを始めた。
きっかけは、自転車(車体)は軽量であればあるほど有利(特にヒルクライム)であるが、100gのパーツ軽量化に10,000円の投資が必要と言われていた時代である。
ならば車体より、身体を軽くした方が安上がりと思って、ダイエットと持久力強化を兼ねて始めた。
しかし、そのうち熱が入り、フルマラソン50回ウルトラマラソン6回完走した。
ランニングクラブにも所属し、その走友との交流は人生を豊かにしてくれるといっていいほど有益なもの思っている。
ただ、永年真面目に走って来た人は極めて高い確率で足(特に膝)を患い走れなくなる。
だからというわけではないが、60歳過ぎた頃より軽いジョギング程度に止めている。
余生も同様に健康維持程度に走り続けたい。
尚、記録的には走り始めて約10年、45歳頃がピークだった。
定年退職してから走り始めた人もやはり10年位は記録が伸びるようだ。
6.【キャンプ】
37歳(1992年 平成4年)頃、RVブーム到来に乗じて当時人気があった三菱パジェロを買って家族でオートキャンプを楽しんだ。
パジェロのルーフキャリアに道具一式を積み込んで自転車やマラソン大会に合わせて近くのキャンプ場でテントを張った。
ランタンもガス、ホワイトガソリン、灯油、キャンドル等いろんな灯りを点して愉しんだ。またシーズンオフになって安くなったキャンプ道具を買って、一度も使っていないものも数多い。
そのころ子供たちも幼く、家族旅行と言えばキャンプだった。
ある時、小学校の廃校を利用したキャンプ村に宿泊したとき、幼なかった長女が「ここホテル?すごいね!」と目を丸くしたことが懐かしい。
その長女も今はちょうどその頃の子供(孫)がいる。
その家族キャンプも子供たちの成長とともに終了した。
その後は山登りや、時には自宅のベランダでコッフェルとマナスル96を持ち出してご飯を炊いたり、コーヒーを沸かして気分を味わっている。
退職後の余生は今流行りのソロキャンプ、車中泊など計画しており現在準備を進めている。
7.【釣り・ボート】
40歳(1998年、平成10年)頃、ヤマメ釣りを始めた。ヤマメだから渓流や沢を源流に向かって瀬や淵を釣り歩く。
釣行を重ねていくうちにどの場所(流れ)でヤマメが餌を待っているかわかるようになる。ところが、そのポイントにそおっと餌を流し込もうとすると思わぬところからヤマメが餌目掛けて飛び出してくることもある。
特に顔つきが厳めしくパーマークが丸くて肌も黒みがかった天然のヤマメが釣れた時は感無量だ。
ただ、ヤマメ釣りは危険が伴う。それに日の出前に釣果が集中するため朝が早い。
その後海釣りに行くようになってからはヤマメ釣りは途絶えている。
42歳(2000年 平成12年)ボートの免許(2級小型船舶免許)を取った。
知り合いが所有する5馬力の船外機を積んだ小さなボートで釣りに行った時から、ボートに興味を持ち、免許を取った、が、取ったからにはボートが欲しくなる。
そこで車に積み込んでどこにでも行けるAchillesゴムボート(FMI406)と8馬力の船外機を購入した。
8馬力だからボートの重量のバランスをとれば飛ぶように滑走する。
そのボートも約6年乗って飽きた、わけではないがゴムボートの準備、格納は結構大変である。それに8馬力の船外機はずっしりと思い。
またキャンプや自転車、マラソン等他にやることもあって次第と足が遠のき6年目の船検をパスしてしまった。
そのうち5年ごとの船舶免許更新も忘れて、ついに失効した。
ボートは(船外機も)倉庫にいつでも出船できる状態で眠ったまま。
あらから14年(65歳)、世間はコロナ騒動でマラソンも自転車も何もかも中止となった。そんな折、ふと、眠り続けている船外機を蘇らせようと思い立った。
それから驚いたことにAchillesのボムボートも当時の若さを保ったまま健在であった。
その健気なゴムボートを見たとき、再び大海原を滑走させなければ申し訳が立たない、と思った。
そのためには先ず、失効している船舶免許を復活させなけらばならない。
調べてみると失効免許再交付の費用より、一般受験で「一級小型船舶操縦士」免許取得の方が安いと分かった。
そこで、アマゾンから問題集とコンパス、定規を買って試験に臨んだ。
65歳(2020年 令和2年)一級小型船舶操縦士に合格した。
それからAchillesのボート、ヤマハの船外機その他一式持ち込ん船検もパスした。
余生は大海原を滑るように、飛ぶように滑走させる、というより、例の豆アンプとスピーカーを積み込んで、波に揺られながらのんびりと洋上コンサートを開催するのが当面の目標である。
8.【ラジコン】
50歳(2004年 平成16年)から飛行機、グライダー、ヘリと言ったいわゆる空物のラジコンを始めた。
若い頃は一時アバンテ(オフロードカー)等、陸物を組み立てて走らせていたこともあったが、やはり空飛ぶ飛行機は憧れであった。
ただ、飛行機は技術的に難しいだけでなく危険が伴うため、熟練者の指導と飛ばす場所の確保の問題で長年手が出せずにいた。
ところがある日、ふとしたことで「空飛ぶラジコンが趣味」という人に出会った。
それも「のめりこみ派」のベテランである。
それからその人のクラブに入った。
専用の立派な飛行場(手作り)もあった。そして、周りの人達も皆その道一筋の「ラジコンバカ」(良い意味で)揃いである。
そこで一気にラジコン熱が加速した。
先輩たちの指導の下、高翼機、低翼機、ファンフライ、モーターグライダー、ジェット戦闘機、そしてヘリコプター(エンジン、電動)等々組み立てては飛ばし、飛ばしては壊したりで愉しんだ。
特にヘリコプターの操縦は難しい。
飛行機やグライダーは滑空という時間があるが、ヘリの場合、それがない。
宙に浮き、前後左右に動く機体を安定させるためには一瞬たりとも舵の打ち間違い(操縦ミス)は許されない。
ミス、即、墜落。反射運動の連続である。
そればかりではない。墜落した機体は操縦不能となりローターを折りながらもなお轟音を響かせながら燃料が切れるまで地面をのたうち回って生きている。(足で押さえつけて燃料を切る場合もあるが)
ただそんな光景を見るのもまた愉しみの一つであった。
操縦の練習は実技も大事だがフライトシュミレータ―というパソコンのモニターで練習が出来る時代である。
練習に練習を重ね、ヘリでは対面ホバリング、背面飛行も出来るようになった。
ただ、熱しやすく冷めやすいタイプ派は一応の目的を達成したことや、また、他にやることも多くなって、次第と足が遠のき、結局休止することにした。
ところが、
9.【ドローン】
2014年の(平成26年)夕刻、ジョギングをしていると、広い公園の茜色に染まりかけた西の空に青い光を点滅させながら浮かんでいる異様な物体を見つけた。
「UFOだ!」
空を見上げて佇んだ。
その内、黒いUFOはゆっくりと下降し、広場に立つ男性の下にまるで跪くように着陸した。
それが「ドローン」との最初の出会いであった。
操縦者は70歳内外の高齢者である。
小走りに近寄って、声をかけると、その操縦士はドローについてモニターに映し出される画像を見ながら懇切丁寧に説明してくれた。
それからこんなことも言った。
「私は仕事は卒業し、楽しみといったら孫の守りとこれ(ドローン)位です。酒もたばこもやらないし…」
その当時のドローンは今のオールインワンと違って機体に取り付けるカメラやFPV(画像伝送、受信装置)は高価な別売品であった。
それから2年後の2016年(平成28年)待望の小型折りたたみタイプで高性能ドローン「マビックプロ」が発売された。
それまでのドローンは足つきお膳のように立方体で簡単に持ち運びができなかったが、「マビックプロ」は自転車や購入して間もないオートバイ(カワサキW650)でも運べるほど小型になったので迷わず予約注文した。
あの一瞬のミスで墜落するラジコンヘリコプターとは比べものにならないが、4年前、UFOと見間違たドローンと比べても全く別次元と言ってもよい程、進歩、進化していた。
それから更に2年後の2018年(平成30年)さらに高性能となった「マビック2プロ」が発売された。
たまたまドローンに興味をもった友人がいたので、先代をその友人に譲って「マビック2プロ」に買い替え、今日に至っている。(国土交通省に登録済)
進化したドローンは「操縦が簡単」というレベルではない。
受信器に接続したスマホの画面(地図)に飛行経路や高度、速度、カメラの向き撮影の on、off 等設定して、「GO」をタップするだけで設定した通りに障害物を検知しながら何キロも飛んで、撮影して、元の場所に戻ってきて、勝手に着陸する。
いわゆる全自動飛行である。
だからラジコンヘリや飛行機のような操縦の楽しさ、面白さはない。
故にラジコンの達人には全く興味のない分野かもしれない。
しかし、GPSやセンサー等を駆使したAI技術の進化を愉しむには「ドローン」は打って付けの道具である。
(ただ、現代のドローンからを始めた人はその技術の違い、進化、そして飛んでいる物体は「落ちる」という危険性は理解し難いかもしれない)
余生は危険度を十分踏まえながら、ドローンのそのAI化した技術で鳥になって、空から下界の美しい風景を眺めてみたいと思っている。
当時飛ばしていた飛行機やグライダー、ヘリの殆どは友人に貰ってもらい、一部を部屋の装飾品として残している。
10.【オートバイ】
57歳(2011年、平成23年)中古のカワサキオートバイW650を買った。
免許は50年前、高校1年の夏休みに友達に誘われて、当時の「自動二輪」の免許を取った。
しかし、その後バイクを購入したこともないし、特に興味を持ったこともなかった。
だから、いわゆる「リターンライダー」ではない。
ただ、当時父親がスズキの125ccの黒い実用車に乗っていたので、そのバイクをたまに拝借して乗っていた。その程度である。
では何故オートバイに興味がないのに、W650を買ったか。
ある自転車の大会に参加した時、地元のオートバイの愛好家の皆さんにその大会をサポートして頂いたことがある。
緩やかの坂道をリズムよく(?)走っていると、背後からオートバイの懐かしいエンジン音が響いてきた。
やがて迫ってきて、やがてエンジン音を長閑に響かせてに追い越して行った。
音だけでない。その車体もあの頃の雰囲気を醸し出している。
これまでのサイクリングで同等のバイクと数多く出会っているはずである。
なのに何故その時だけ懐かしく感じたのか?
多分、低速のエンジン音に、未来に広がる希望よりも、過去の出大事が夢のように心に響く年齢になったのかもしれない。
私はそのエンジン音が聞こえなくなるまで自転車を漕ぎながら耳と目でバイクを追った。
オートバイに興味があれば直ぐに車名も年式も分かるだろう。しかし、これまで興味も関心も全くなかったので皆目分からない。
ただ、シートに「KAWASAKI」の文字だけが写った。
翌日、大会事務局に電話でその特徴を述べて車種を調べてもらった。
しばらくして回答があった。
「あのオートバイは、1971年式のカワサキW1SA、ということでした」
1971年なら、私が自動二輪の免許を取った年だ。これも何かの縁かもしれない。
早速、リサーチしてみると、近くにカワサキW1SAをレストアしている個人のバイク屋があることを知った。
購入するつもりはなかったが、出向いて店を覗くとと確かにあの時と同じバイクがあった。タンクも塗装され、ホイールも銀メッキに輝いている。
店主に「これは売り物か?」と聞くと、
「売り物だ」と応えた。
「エンジン掛かるのか?」
「掛けてみよう」と言ってキックを踏み下ろした。
すると、あの時よりも迫力のあるエンジン音が2本のマフラーから白煙と共に吹き出でた。
更にスロットルを回すと、車体が前後に揺れ、スタンドが動き出した。
いくらか?と聞くと、しばらく考えて、
「95万円、位」といった。続けて、
「あと、ハーネス等の交換があるので完成は半年先かな。ところでご主人、バイクの歴はどれ程か?」
私はありのままに「免許はあるがバイクを買ったことがない」というと、
「だったら、W800がいいですよ。インジェクションでエンジン掛けたら直ぐ乗って行けますから。それに故障もしない —」
要するに初心者にW1SAは乗りこなせない(売りたくない)と言いたいのである。
私も、その通りだと思う。素人に旧車は敷居が高い。
かと言って新型のW800に譲る訳にはいかない。
私にはオートバイの仕様でどうしても妥協することが出来ないこだわりが一つあった。
それは、キックでエンジンを掛けること。
キックのないオートバイ、それはautobicycleでなくmotorcycleの範疇である。
(ニュアンスの違いで、どちらも同じだが)
というのも、父親が乗っていたスズキの実用車はキックでエンジンを掛けていた。
私は中学のころ、勿論免許がないから、乗り回すことはしなかったが、そのオートバイのエンジンをキックで掛けることを愉しみとしていた頃がある。
中々掛からない時もあれば、車体を前後に揺すってタイミングよくクラッチレバーを離すとエンジンが掛かることもあった。
だから、オートバイとはキックスタートで始まる乗り物と今も思っている。
乗ることを目的とするならセルスイッチを軽く押して直ぐに走りだすインジェクションのW800が良いに決まっている。
しかし、私の目的は「懐かしさを愉しむ」ことにある。
確かにW1SAは音もスタイルも回顧にふさわしい。しかし1971年製の旧車となれば専門的な知識も技術も要る。
それに目の前の旧車はまるで新車のように塗装され、メッキが光っている。
それもなんとなく不自然でもある。
となれば、キックでキャブ車、古くて新しいW650の一択となる。
それは下調べで凡そ見込んでいた通りの図式であった。
それから数日後「希望に沿うw650が見つかった」と連絡が入った。
それが今乗っている2008年式のカワサキW650である。
勿論マフラーは納車時に社外品に取り換えた。
それから約10年、バッテリーを一度取り換えた以外、故障、不具合は皆無である。
また燃費もリッター当たり25~30キロと経済的である。
それに何といっても高齢者でも気楽に乗れるところが一番良い。
最近は自転車よりW650に乗る方が多くなってきた。
特に田舎の旧道を低速でエンジン音を聞きながら走るときは至福の時である。
これから先の余生も、あの時サポートして頂いたオートバイのように、のんびりとエンジン音を響かせながら、美しい日本の風景を堪能したいと思っている。
11.【発動機】
64歳(2018年 平成30年)
ここで言う発動機とは昭和の初期から30年代頃まで、主に脱穀や籾摺りなど農作業用の動力源として使われていた機械のことである。
燃料は石油や軽油を使用しており、石油発動機、ディーゼル発動機と呼ばれていた。
昭和30年代、小学校の登下校時にあちらこちらから発動機の音がこだましながら山間の村に響いた、懐かしい思い出がある。
また、通学路の脇の空き地に子供の背丈ほどもある丸ノコに大きな発動機をベルトで繋いだ簡易の製材所があった。その発動機が動いている時は耳を塞いで通っていが、使っていない時は材木を乗せるレールの台車に乗って遊んだ記憶が蘇る。
ある時、長閑な農村をサイクリングしていると、小川の土手に油で汚れた赤い燃料タンクの発動機が無造作に置いてあった。
近寄って確認することは出来なかったが、多分昭和30年代のヤンマーのディーゼル発動機に違いなかった。
川の傍に置いたあったから陽水ポンプの動力として今も使っていたのだろう。
またある時、起伏のあるミカン山でペダルを漕いでいると、「ダッダッダッ」という聞き覚えのあるレトロな音がどこからともなく聞こえてきた。
これもまた幼い頃聞いたディーゼル発動機の音である。
その姿を見ることは無かったが、ミカンの散水ポンプの動力として現役で働いているのだ。
さすがに石油発動機を現役として使っている農家はいないと思うが、ディーゼル発動機はまだまだ元気である。
(所有しているディーゼル発動機、ヤンマーNT65Kの取り扱い説明書が今でもメーカーサイトからダウンロードできるのには驚いた)
やはり田舎の風景には昔の発動機がよく似合う。
クボタ AHB型
燃料:石油(灯油)
出力 : 2.5馬力/1,100~1,300rpm
製造年代 : 1952年頃(昭和27年頃)
体重:74Kg
推定年齢69歳。
(オークションで落札)
ヤンマー NT65 K型
燃料:軽油
出力:2.5~3馬力(1800~2000rpm)
製造年代:1959年頃(昭和34年頃)
体重:55Kg
推定年齢:62歳
(オークションで落札)
この2台の発動機が最も古くて最も新しい私のHobbyとなった。
エンジン音の懐かしさは「ヤンマーNT65K」である。
(おじさんたちも殆ど「ヤンマー」の帽子をかぶっていたような記憶がある)
見た目、音の風格は古いだけあって「クボタのAHB」である。
オートバイで例えるなら、ヤンマーNT65KがW650、クボタのAHBがW1SAといったところか?
ただ、細君がこの発動機が届いた時「一体全体これをどこに置く積りなの」と目を丸くしたあと絶句した。
それから古くからの友人達も
「趣味が色々あるのは知っているが、これ(発動機)だけはどうしても解せない。どこがいいのか?」
口をそろえた。
私は「ピカソやゴッホの絵を眺めるのと一緒だ」と言った。
またある友人は「今から百姓でも始める積りか?」と聞いた。
面倒だから「余生は昔ながらの農機具を使った農業法人を立ち上げようと思っている。一口乗らないか?」と誘った。
また仕事関係のある人は不思議そうに「あのぅ…発動機の、どこが…」と聞いてきたので、
「音と匂い」と応えた。
確かに発動機は山に響いて田舎によく似合う。
しかし、都会の住宅地ではそうもいかない。
だから、鳴らす時は近くの広場まで自作の台車で運搬して行かなければならない。
ただ、発動機を響かせていると余生の先輩がたいてい話しかけてくる。
そして最後は一様に「今日はいいものを見せてもらった」と言って去っていく。
つい先日、クボタのAHBがすねた。
数時間粘ったがついにエンジンが掛からない。
ピストンに圧縮はある。プラグから火花は飛んでいた。となれば燃料系か。
そこでキャブレターを分解してみた。
すると、空気弁とニードルバルブと燃料噴出口、ガバナー(調速機、スロットル弁)といった簡単な構造。(負圧で燃料を直接吸い上げ霧状にしてシリンダー内に送り込んでいる)
そこでよくよく眺めていると空気弁を取り付けるガスケットが劣化摩耗しており、既にその形も見当たらい。
原因はそこからの空気漏れ。
即ち負圧不足で燃料供給が伴わないことによる不具合である。この状態今までよく動いていたものである。
早速、ガスケットを自作し、組み立てフライホイールを回すと、再び快調なエンジン音を響かせた。
全国には「発動機愛好会」がまだまだたくさんある。
現役を退いた発動機たちもそこで愛情を注がれて豊かな余生を送っていいるに違いない。
これからも老朽化した発動機の手入れをしながらその音と匂いを絶やさずに、共に余生を愉しんでいきたいと思っている。