余生は青春を超えた !

「わしら青春!」の到来だ。

いや、ちょっと待てよ、

余生の世界は、期末試験も受験勉強もないぞ。
就職や恋愛、結婚という面倒な儀式や子育ても既に免除された。
それに堂々とバスにも座れるし、博物館も動物園も記念館も無料(タダ)になって、シニア割引も盛沢山。
更には、見知らぬ果てに広がる不確実な未来やおぼろげな希望に立ち向かっていく辛い努力や辛抱などしなくてよいではないか。

そう考えると、あの頃の「青春」を超えた理想」の時代、楽園の幕開けである。

となれば 生は青春を超えた

無論、あの頃抱いた夢を少しずつ諦めながら65年が過ぎ、平凡に生きる事の難しさも苦しさも愉しさも味わっている。

そして、特段の才能がないと気付いた今、平凡に生きる方が余程気楽で愉しく「貴重な人生」と知った。

これから先もつつがなく平凡に生きなければならない、が、天はこれまでの労を褒章し「愉しい」ことのみを通過してくれる「定年」というフィルターをゴールに設け「余生」を与えたではないか。
これを生かさない手はない。

青春を超えた「理想郷」は平凡に「時を愉しむことのみ」の世界だ。

シニアライフを「平凡」に生きることが出来るなら、そこはもう「理想郷」、愉快な世界である。
ただ、迂闊に生きていくと、四季折々の自然の美しさすら気づかずに見送って、あっという間に日付が変わってしまうかもしれない。

人生を長さという物差しで計れば限りがある。
しかしこれを愉しさの深さや密度やと言った尺度で計るなら無限ではないか。

アメリカの詩人 サミュエル・ウルマンの 「青春」の前文にはこう書かれている。

「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、
安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。
」